Q. NHKドラマ「ばけばけ」の舞台・松江と怪談文化にはどんな関係があるの?
→ 小泉八雲が愛した町・松江は、日本の怪談文化を世界に伝えるきっかけとなった地。武家文化と静かな自然が怪談の世界観を深め、多くの“物語”がこの地から生まれました。
「ばけばけ」の舞台が松江やと聞いて、なんかゾクッとしたんよな。
ウチ、怪談とか神話とか、日本に古くから伝わる“語り”がめっちゃ好きでさ。
そんなウチから見ても、松江ってちょっと特別な町なんよ。
静かで、湿度があって、時々現実と夢のあいだにふっと迷い込みそうな…
そんな“空気”を持った町。そこに、小泉八雲が住んで、怪談を書いて、
その世界観が「ばけばけ」に生きとるって思ったら、ワクワクしてまうやん。
この記事では、「なんで松江なん?」「松江と怪談ってそんなに関係あるん?」って疑問に、
怪談オタクの視点でじっくり答えてくで。
ちょっと怖くて、でもやさしい、“語り継がれる物語”の世界。
ウチと一緒に、のぞいてみぃひん?
ばけばけの舞台・松江ってどんな町?
松江は、島根県の東のほう、日本海と宍道湖に挟まれた静かな城下町。
お堀をたたえる松江城、武家屋敷が残る塩見縄手、そして霧に包まれる宍道湖の夕景…。
どれも観光パンフレットに出てきそうな風景やけど、ウチが惹かれるんは、もっと“目に見えへん部分”。
たとえば、松江って湿気が多くて、風があんまり吹かへん。
音も反響せぇへんし、時間の流れがどこか“止まってる”ように感じるときがある。
そういう感覚、怪談とか伝承が生まれる土地にようある気ぃせえへん?
そして、町の人らは昔から「語る」ことを大事にしてきたんやって。
祭りや法話、昔話の語り部…。言葉にのせて記憶を残す文化が、この町にはちゃんと息づいてる。
そんな松江を舞台にして、「ばけばけ」が語られるってことは──
そこにある“見えへん物語”を、ちゃんとドラマが拾い上げようとしてるってことやと思うんよ。
小泉八雲と松江の出会い|怪談文学の原点
小泉八雲――本名ラフカディオ・ハーン。
ギリシャ生まれ、アイルランド育ち、そして運命に導かれるように日本へ。
その彼が、初めて“日本に住んだ”土地が松江やねん。
ウチ、この話ほんまに好きなんよ。
八雲は松江の女学校で英語教師として働きながら、町の風景や人々の暮らしを肌で感じとってた。
異国の地に身を置いた彼が驚いたのは、日本人が**“目に見えへんもの”に対して深い敬意を持っとること**。
霊、祖先、自然の精霊――それらと共に生きる感覚が、日本のあちこちに息づいとった。
中でも松江は、その“静かな敬い”が色濃く残る土地やったんやろな。
だから八雲は、ただの観光客でも、よそ者でもなく、“語り手”としてその世界に入り込んだんやと思う。
松江での暮らしがきっかけで、彼はやがて『怪談(Kwaidan)』や『耳なし芳一』を世に送り出す。
この地の静けさと物語の匂いが、八雲に“日本の死生観”を語らせたんや。
異文化の眼を通して日本を見つめた八雲の視点は、いま「ばけばけ」という形でまた語り直されてる。
それってめっちゃ尊いと思わへん?

なぜ松江は“怪談の町”と呼ばれるのか?
松江が“怪談の町”やって呼ばれるようになったんは、単に小泉八雲が住んどったから――やないんよ。
実はそれ以上に、この土地そのものが怪異と親和性を持っとるからなんや。
まず、松江の風景を思い浮かべてみて。
霧の立ちこめる宍道湖、お堀をたたえる松江城、苔むした石畳、ひと気のない細道…。
どこか“現実と異界のあわい”みたいな雰囲気、漂ってへん?
それに加えて、この土地の人たちは昔から「語る」ことを大切にしてきた。
民話、昔話、法話、幽霊譚…。
“目に見えへんけど確かに存在するもの”を、声にして残すという文化が、この町にはあるんよ。
実際、松江ではいまでも「怪談」をテーマにしたイベントが盛んやねん。
小泉八雲記念館では毎年**「怪談朗読会」や「八雲ゆかりの夜ツアー」**が開かれてて、
町ぐるみで“語り継ぐ怪談文化”を守っとる。
だから、松江って単なる舞台やない。
そこには、“怪談を語るにふさわしい空気”と“語り部の記憶”が残ってる町なんやって、ウチは思う。
遠野物語との比較|“語り”でつなぐ日本の怪異
「怪談」って聞いたとき、ウチが思い出すのは小泉八雲と、もうひとつ。
柳田國男が記した『遠野物語』。
これ、岩手の山あいの町・遠野に伝わる昔話や怪異を、“聞き書き”で残した民俗学の金字塔やねん。
小泉八雲と柳田國男。
この二人のアプローチは、めっちゃ対照的やのに、根っこでは同じもんを見とったと思うんよ。
たとえば――
- 八雲は、異国の眼差しで日本人の死生観に感動し、そこにある“美”を文章にした
- 柳田は、土地に根ざした語りを「失われる前に記録せな!」って焦りながら書き残した
片や翻訳的でロマンティック、片や記録的でリアル。
でも、どっちも“語り手”と“聞き手”がいて、声にならへん想いを物語に変えてきた文化を大事にしとったんや。
松江と遠野。
片方は水辺の町、もう片方は山の里。
風景も方言もぜんぜん違うのに、“語らな消えてまう”という危機感から生まれた怪異の物語には、通じるもんがあると思うねん。
「ばけばけ」が描こうとしてるのも、まさにこの“語ることの意味”。
だからこそ、ウチは松江を舞台にしたこの朝ドラに、文学的にも民俗的にも惹かれてしまうんよな。
ばけばけが照らす“無名の想い”|語ることの意味

「ばけばけ」は、ただ怪談が出てくる朝ドラやない。
ウチが感じてるのは、“語ることで、人が存在し続ける”っていうテーマなんよ。
このドラマのヒロイン・トキは、
世の中から見たら無名で、特別でもない、普通のひとりの女性。
でも、彼女が夫の“ヘブン”と一緒に、名もなき人々の物語を紡いでいく姿に、
ウチは“怪談”がもともと持ってる役割を重ねて見てしもた。
怪談って、怖がらせるためだけの話ちゃうねん。
昔の人は、語ることで“生きていた誰か”の記憶を、そっと残してきた。
それが幽霊の話やろうと、妖怪やろうと、“忘れられたくない想い”が奥にある。
トキとヘブンが拾い上げていくのは、
まさにそんな“声にならなかった誰かの想い”。
彼らの語る怪談には、怖さよりも、切なさや、優しさが滲んでるんやろなってウチは思う。
物語って、過去と未来のあいだに橋を架けるもんやと思う。
「ばけばけ」が見せてくれるのは、語り継ぐという行為の、ささやかで力強い魔法なんやろな。
怪談は松江の“静かな声”|まとめ
「ばけばけ」を通して見えてきた松江は、ただの観光地でも、ただの朝ドラの舞台でもなかった。
そこには、“語られてきたもの”と“語られなかったもの”が、
静かに共存しとる空気があったんよ。
小泉八雲が魅せられたのも、
トキとヘブンが物語を紡いでいくのも、
ぜんぶこの町が持つ“声なき声”に、ちゃんと耳を傾けたからなんやと思う。
怪談って、誰かのささやきの記憶。
松江という町は、そのささやきをちゃんと受け止めて、
いまでも語り部として、そっと語りかけてくれる場所なんやろな。
「ばけばけ」を観たあとに、
その背景にある“物語を宿した町”のことも、
ちょっとだけ思い出してもらえたら嬉しいなって、ウチは思う。
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