完璧でも優等生でもない。それでもぶつかる静先生が、いちばんリアルで泣けた。|『なんで私が神説教』第2話 感想・考察


1. あらすじ──完璧じゃない先生と、ぐちゃぐちゃな感情

「なんで私が神説教」第2話。
クラスで起きた三角関係のもつれ。
陽奈は、友達の彼氏を好きになってしまった。

友情も、恋も、プライドも、全部ごちゃまぜになって、
取り返しのつかない空気になった教室。

──そして静先生は、その崩れた空気を、
最初、ただ「見守ろう」としてた。

何も言わない。
踏み込まない。
うまくいくことを、ただ祈っていた。

でも、
「このままやと、壊れる」って、途中で気づいてしまう。

それでも、彼女は教師らしい正論も、立派な言葉も持ってなかった。
持ってたのは、
「こんな自分でも、向き合わなきゃいけない」っていう、
ぎりぎりの覚悟だけ。


2. 神説教の本当の意味──相手のためじゃない、自分のためでもある

静先生は、
生徒のために”説教”したんとちゃう。

自分自身が、
「ここで逃げたらあかん」
「傷ついたまま、見て見ぬふりしたら、自分も嫌いになる」
──そう思ったから、言葉を吐き出しただけや。

生徒のために、とか、
立派な先生だから、とかじゃない。

むしろ、
「先生なんか辞めたい」って思ってる彼女やからこそ、
先生って肩書き取っ払った、人間同士の高さで言葉を投げた。

だから、刺さった。
だから、温度があった。

ただの説教じゃない。
正論を押し付けるためじゃない。

「私もわからへんけど、それでも一緒にここにおる」
そんな、生きたままの言葉やった。


3. 叱るって、こんなにも痛くて優しいことやったんか

今の時代、
叱るってめっちゃ難しい。

間違った叱り方すれば、すぐ炎上する。
叱る側も、叱られる側も、みんな傷つくリスクを背負ってる。

そやから、
叱ること自体を避けてしまう。

でも静先生は、それでも叱った。

怖かったはずや。
生徒を傷つけるかもしれへん自分に、
自分でもビビってたはずや。

それでも言葉を絞り出したのは、
相手を変えようとしたんやなくて、
自分が、自分でいられるためやったんやと思う。

叱るって、相手をねじ伏せるためやない。
叱るって、自分が一緒に傷つく覚悟をすることやったんやな。

それを、静先生が教えてくれた。


4. SNSも涙、涙──「叱られたのに救われた」

放送後、SNSはボロ泣きの嵐やった。

  • 「叱られるって、こんなに温かいもんやったっけ」
  • 「怒られたんじゃない、寄り添われたんや」
  • 「泣いた。陽奈と一緒に、救われた気がした」

こんな声がめちゃくちゃあふれてた。

「叱られたのに救われる」って、
ほんまに奇跡みたいやけど、
それが今回、確かに起きた。

生徒を”正しい場所”に導こうとしたんじゃない。
一緒にぐちゃぐちゃになりながら、
「それでも生きろ」って手渡した言葉やったから、
響いたんやと思う。


まとめ──完璧じゃない叱り方に、救われる時代

静先生は、
完璧でも優等生でもなかった。

正解も知らんし、
人の気持ちを完璧に救う力も持ってへんかった。

それでも、
「逃げたくない」って踏みとどまった。

その不器用な説教が、
陽奈の心を動かして、
そして、画面の前におった俺らの心まで救った。

今、
立派な言葉や正論だけが飛び交う時代やけど、
ほんまに人を救うのは、
完璧じゃない叱り方なんやと思う。

第2話は、
そんな小さくて、でもめちゃくちゃデカい奇跡を
見せてくれた回やった。

オレも𠮟り方の参考にしよ。
次回も楽しみにしとるわ!

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