久々に観た『ファイト・クラブ』が、思った以上にヤバかった
ふとしたタイミングで、Amazonプライムに『ファイト・クラブ』があるのを見つけた。
昔観たときの衝撃は覚えてたけど、正直、今見たらどうなんやろ?と思いながら再生ボタンを押した。
ゆうて25年も前やからな、今見たら違って見えるかも?
そういう期待からボタン押してん。
──気づいたら、完全に持っていかれてた。
1999年の映画とは思えんぐらい、
むしろ今この時代にこそ刺さるエグさと鋭さを持ってる。
ブラッド・ピットのタイラー・ダーデンはやっぱり最高にイカれてるし、
エドワード・ノートン演じる主人公の、
「生きてる実感ゼロ」の空っぽっぷりも痛々しいほどリアル。
なにより、
「殴り合い」という原始的な行為が自由への鍵になるっていう、
あの狂ったコンセプト。
あらためて観ると、めっちゃ考えさせられる。
今回はそんな『ファイト・クラブ』を、
“戦い”と”自由”のメタファーという視点から、ガッツリ掘ってみたいと思う。
まずは、簡単にストーリーを振り返っとこうか。
【ネタバレあり】『ファイト・クラブ』あらすじまとめ
主人公(エドワード・ノートン)は、大企業に勤めるサラリーマン。
理想的な部屋、最新の家具、完璧な生活。
──にもかかわらず、心はスカスカ。
どんだけモノを手に入れても、
“本当の自分”にはまったく触れられてへん感覚に苦しんでた。
そんな彼が出会ったのが、タイラー・ダーデン。
石鹸を作りながら、世界を皮肉り、自由を説く謎の男。
二人は意気投合し、
駐車場で思わず素手の殴り合いを始める。
──これが全ての始まりやった。
やがて、同じように鬱屈した男たちが集まり、
秘密の「ファイト・クラブ」が誕生する。
血を流し、骨を折り、痛みを味わうことで、
彼らは日常に失った”生”を取り戻していく。
けど、タイラーの思想は次第に暴走。
クラブはテロ組織「プロジェクト・メイヘム」へと変わり、
社会への破壊活動を始める。
そして迎える衝撃の事実──
タイラーは、主人公自身の別人格だった。
壊れていくビル群を見つめながら、
主人公はタイラーに別れを告げ、
自分の人生を取り戻そうとする。
なぜ、彼らは「戦う」ことを選んだのか?
さて、ここからが本題や。
冷静に考えたら、
ただ素手で殴り合うとか、普通にヤバい。
けど彼らにとっては、
それが唯一「本当の自分」を思い出せる方法やったんやろう。
「ここでは名前も、地位も、収入も関係ない。
ただ肉体と痛みだけがリアルだ」
ファイト・クラブは、
資本主義のルールにどっぷり漬かった男たちにとって、
**生身の自分を取り戻す”再起動ボタン”**みたいなもんやった。
痛みを感じる。
血を流す。
地面に叩きつけられる。
それで初めて、
「俺は生きてる」って思えた。
タイラーが言うように、
「痛みだけが確かなリアリティ」。
モノじゃない、地位でもない、
自分の肉体そのものが、存在を証明してくれたんや。
タイラー・ダーデン──自由を求めすぎた男
タイラー・ダーデンは、間違いなく主人公が無意識で生み出した“理想の自分”やった。
他人の目なんか気にせえへん。
社会のルールなんかブチ壊して、自分の欲望に正直に生きる。
誰もが心の奥底で憧れる「自由人」そのもの。
せやけど、
タイラーの自由は、最終的に**「破壊」へと向かっていった**。
消費社会に中指立てるどころか、
金融機関ごと吹っ飛ばして、社会システムをゼロからやり直そうとする。
そこにあったのは、
**「自由」という名の無政府状態=混沌(カオス)**やった。
タイラーが進んだ先は、自由の果てじゃない。
自由を暴走させた結果、生まれた暴力と破壊や。
これって、むちゃくちゃ皮肉やと思うねん。
自由を手に入れたはずが、
結局は別の“支配”に堕ちていく──
それを、主人公は無意識で見抜いてたんやろな。
ラスト、主人公が選んだ「本当の自由」
だからこそ、主人公はタイラーを撃った。
それは、単なる自己破壊でも、タイラーへの裏切りでもない。
──自分自身を取り戻すための、最後の戦い。
タイラーを消すことで、
主人公はようやく「誰でもない自分」に帰る。
消費社会に飼いならされた奴隷でもない。
タイラーみたいな破壊の亡霊でもない。
ただ、自分として「今ここに生きる」こと。
それこそが、
この映画が描いた”自由”の本当の意味なんちゃうかなって思う。
ラスト、マリラと手を繋ぎながら、
崩れ落ちるビル群を眺めるシーン。
あれって、破壊の象徴でもあるけど、
同時に──
「全部壊れたって、ここに俺たちはいる」
っていう、めちゃくちゃ静かで強い肯定やったと思う。
たとえ世界がぶっ壊れても、
たとえ未来が真っ暗でも、
それでも俺は、自分の意志でここに立ってる。
そんな、痛いほどリアルな”自由”。
そしてきっと、
この自由は誰にでも訪れる可能性がある。
完璧な家具なんて要らん。
理想のライフスタイルなんかクソくらえ。
それよりも、
殴られて、立ち上がって、
泥だらけでも自分の足で歩き出すこと。
それが、
この世界を生き抜くための、本当の自由やねんな。
まとめ
『ファイト・クラブ』は、ただのバイオレンス映画やない。
もっと根っこの部分──
「自分は本当に生きてるか?」
って問いかけを、拳と血で叩きつけてくる映画やった。
そして、”戦い”は”自由”への入り口でしかない。
その先に、自分自身を選び取る覚悟があるか。
それを、あの映画は容赦なく突きつけてきた。
もし今、
なんとなく生きてて、
なんとなく満たされへんって思ってるなら――
一回、ファイト・クラブ、観直してみ?
殴り合わんでもええけど、
何かがグラッと揺れるかもしれんで。
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この映画、ほんまにヤバいのは
ネタバレ知った2回目以降やと思うねん。
そこで昔見た人も二回目見る人も
どこを見たらいいのか分かるように
オレなりに解説してみたで。
その記事はこちらから。
→【考察】2回目に観る『ファイト・クラブ』がヤバすぎる理由──伏線と演出に注目!
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