あのエンディングを見届けたとき、ウチはしばらく画面の前から動けへんかった。
春恵の願いも、ミヲの葛藤も、約子の涙も、
全部見てきたのに、結局ウチが選んだのは……“誰かの死”やった。
『パラノマサイト FILE23 本所七不思議』のトゥルーエンドは、
ただのハッピーエンドやない。
あれは、プレイヤー自身が共犯者になる物語やと思う。
この記事では、プレイヤー=ウチらが
“何を選んで、何を諦めて、何を背負わされたのか”を掘り下げるで。
もし君も、
「ほんまにこれでよかったんかな?」って胸の奥で引っかかってるなら、
ここで一緒に整理してこう。
『パラノマサイト』トゥルーエンドに納得できない人へ|選択肢が問いかける“あなたの罪”とは
「え?これで終わり…なん?」
最初にエンディングを見たとき、ウチの頭ん中もそんな言葉でいっぱいやった。
みんなの願いがぶつかって、奪い合って、
やっとたどり着いた最後の最後で、
出てきたのが「プレイヤー、あんたやで」っていうあの展開。
えぐいわ。
誰が正しいとか、誰が報われるとか、
そんな単純な話やないってわかってたはずやのに、
それでもどこかで「誰かには救われてほしい」と願ってた。
けど、
『パラノマサイト』のトゥルーエンドは、
**“それを願ったプレイヤーこそが、一番罪深い存在やった”**って突きつけてくる。
この終わり方は、「綺麗なオチ」やない。
むしろ、終わらせる責任をウチらに押しつけてくるタイプの物語や。
納得できへんのも当然やし、
「誰も救われへんやん!」って投げたくなる気持ちもわかる。
でもな、ウチはあのとき、
画面越しに問いかけられたような気がしたんよ。
あなたは、誰の物語を“終わらせた”の?
ここから先は、ウチなりの答えを残していくで。
同じとこで立ち止まってたキミにも、きっと響くはずやと思う。
真実の結末とは?トゥルーエンドが描く“贖罪と解放”の深層心理分析
『パラノマサイト』の物語って、
最初はただの都市伝説の再現とか、ホラーゲームっぽいノリで始まるやん?
けど進めるほどに、プレイヤーは“呪詛珠”っていう死の道具を集める過程に巻き込まれていく。
その時点で、すでにただの傍観者ではいられへん構造になってるんよな。
トゥルーエンドの鍵になるのは、
全員の“願い”が交差する瞬間。
春恵は亡き息子を取り戻したくて、
約子は親友の死にけじめをつけたくて、
ミヲは視えすぎることで心を閉ざして、
それぞれが“呪い”に手を伸ばす。
でもその「願い」って、ほんまはめちゃくちゃ人間くさくて、弱くて、悲しいもんばっかなんよ。
ほんで、
それを叶えようとすると、他の誰かを殺さなあかんという地獄ルール。
誰かを救う=誰かを犠牲にする。
その選択をウチらにさせてくるのが、このゲームの本質。
そして、全部のルートを見届けたあとにやっと明かされるのが、
プレイヤーこそが陰陽師・土御門晴曼の精神やったってこと。
つまり、
他人の人生に入り込み、選択を与え、
死ぬことも生きることも左右してきたのは――ウチら自身。
これはもう、
“贖罪”以外のなにものでもない。
でもウチな、
それがただの罪悪感で終わってないところが好きやねん。
トゥルーエンドは、呪詛珠の力を「消す」選択もできる。
力を捨てるってことは、願いも捨てるってことや。
それは、自分だけじゃなく、他人の悲しみごと背負って手放すこと。
それって、
めっちゃしんどいけど、めっちゃ強い選択やと思わん?
トゥルーエンドは、
呪いを超えて、「生きていく覚悟」に辿りつくためのエンディングなんや。
なぜ昭和が舞台なのか?都市伝説×怪異の背景に秘めた“ノスタルジー恐怖”の意味
最初プレイしてて、「なんでわざわざ昭和なんやろ?」ってふと思わへんかった?
現代でもホラーって成立するはずやのに、
このゲームが昭和後期にこだわった理由、ウチめっちゃ気になっててん。
で、気づいたんよ。
この作品に出てくる「本所七不思議」って、もともと口伝で語られてきた都市伝説なんよね。
つまり、“誰かが誰かに伝える”ことで、生き続けてきた怪異たち。
昭和って、まだテレビもネットも今ほど普及してなくて、
“噂”とか“うわさ話”が生き物みたいに動いてた時代やと思うねん。
しかも、あの時代特有の空気の重たさ、団地の閉塞感、昭和の街並みの影――
全部が、“見えないなにか”を感じるための演出としてめちゃ効いてる。
しかも不思議なんが、
懐かしい景色の中で起こる怪異って、なんか妙にリアルに感じへん?
ノスタルジーの中にある違和感って、怖さを倍増させるんよ。
この作品のホラーは、
ジャンプスケアとか演出だけやなくて、
「この世界、どっかおかしいぞ」っていう肌感でジワジワくる恐怖が特徴やから、
その不穏さを一番映えさせるのが昭和なんやと思う。
つまり昭和って、
ただの時代設定やなくて、**物語全体の“不気味さの演出装置”**として設計されてるんよな。
ほんでその中で描かれる“願い”とか“呪い”が、
逆にめっちゃ人間くさくてリアルやから、
プレイヤーの心にグサッとくるんやと思うわ。
“誰を救うか”じゃなく“誰を見殺しにしたか”が核心|プレイヤーが抱える選択の重さ

このゲームの選択肢って、
一見すると「誰を助ける?」とか「どの願いを叶える?」って話に見えるやん?
でもな、ウチは途中から気づいてもうた。
ほんまに問われてるのは、“誰を見殺しにする?”ってことやって。
春恵を見てたら思う。
母として、子を失った絶望の中でもがいてる姿に、
「それでも殺しはアカン」って言い切れるほどウチら、強くない。
けど、彼女がもし呪詛に成功してたら、
その裏で誰かが死んでるってことを、忘れたらあかんのよな。
選べへん選択肢なんか山ほどあった。
「こんなんどっちも選ばれへん」って、何度も手が止まった。
けど、選ばんこともまた“選んでる”ことになるのがこのゲームの怖さやねん。
例えば呪詛を使わなかった約子。
彼女の願いは叶わんかったかもしれん。
でも、その“叶わなかった”ことに、
ちゃんと意味を持たせてるのがこの物語のすごいとこやと思う。
逆に、何も感じずに選んだら、一番怖いのはプレイヤー自身かもしれへん。
この物語の恐怖って、
ただの怪異とか呪いやなくて、
“自分の無関心が誰かの死を生む”ってとこにあるんよ。
だからこそ、このゲームが問いかけてるのは
「誰を救った?」やなくて、
「誰を救わなかった?」なんよな。
この問いに真正面から向き合わされたとき、
ウチは、ゲームの中におった“晴曼”やなくて、
“自分自身”として震えたんよ。
クリア後に振り返る“共犯記録”|異なるルートの選択が宿す後悔と責任
エンディングを迎えて、
一息ついたあと、ウチは自然と考えてもうた。
「ウチは、誰を見捨てたんやろ?」
全部のルートをクリアした今となっては、
それぞれのキャラにどんな背景があって、
どんな願いを抱えてたか、全部わかってる。
けどな、最初にプレイしてたときのウチは、
誰かの「死」に納得したふりをして、
誰かの「願い」に肩入れして、
結局、自分の都合のええ選択をしてた気がするんよ。
たとえば、春恵を助けたとき、
どこかで「母の愛は正義」って思ってた。
けどそれは他のキャラの犠牲のうえに成立しとって、
その犠牲に向き合わずに“感動”してたウチが、一番こわい。
トゥルーエンドで呪詛珠を捨てるって選択。
それって「全部なかったことにする」ようでいて、
ほんまは**「全部を記録して、全部を背負う」ことなんやと思う。**
呪いを消すってことは、
誰の願いも叶えられへんってことやけど、
だからこそ、“誰かの死を無駄にせぇへん”という意思が込められてる。
つまりトゥルーエンドって、
ウチらプレイヤー自身が、
この物語の共犯者として責任を引き受けるラストなんや。
自分が操作したキャラが、
誰を見殺しにして、どんな感情を抱えて、
最後にどんな顔で物語を終えたか。
それをちゃんと胸に刻むこと。
それがこのゲームを「終わらせる」ってことなんやと思う。

まとめ|何度も語りたくなる“罪と記憶”の物語――終わりじゃなく始まりになった理由
クリアしてから何日経っても、
ふとした瞬間にあのキャラの顔が浮かぶ。
あのときウチが選んだあの選択、
本当にそれでよかったんやろか?って、
何回も自分の心の中で問い直してしまうんよ。
『パラノマサイト』は、
ただストーリーが面白かったとか、
ビジュアルが綺麗やったとか、
そんなんだけの作品やない。
これは“ウチらプレイヤー自身が、ひとつの世界に介入した記録”であり、
その結果に対して、ずっとモヤモヤを抱えさせるタイプのゲームやねん。
でもな、だからこそ、語りたくなる。
あのキャラの気持ち、わかる気がする。
ウチはこう選んだ。
でももし違う選択をしてたらどうなってたんやろ?
そんな気持ちが積み重なって、
この物語はエンディングを迎えても終わらへん。
トゥルーエンドは、プレイヤー自身の「心のどこかに残る後悔」まで物語に組み込んでる。
それがほんまに見事で、
だからウチは、また誰かと語りたくなるんよ。
語ることで、
あの夜に選べなかった別の未来を、
ちょっとだけ救える気がしてな。
君は、このゲームで誰を救って、誰を見殺しにした?
ウチは、どこかで“これでよかった”って思い込みたかった。
でも今もまだ、あの夜の選択が胸に残ってる。
もし君にも、整理しきれへん感情や伝えたい思いがあるなら――
コメントでも、SNSでも、こっそりでもええから教えてな。
ウチと一緒に、“あの世界”をもう一度語ろう。
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