Q:映画『兄を持ち運べるサイズに』のロケ地ってどこ?
スクリーンの景色をもう一度感じられる場所が知りたい。
A:メインの舞台は宮城県の多賀城・塩竈エリア。
多賀城駅・多賀城市立図書館・市役所・ミラックマツヤ・本塩釜駅・壱番館ビル屋上などがシーンごとに登場するよ。
千葉市斎場・ホテルプラザ菜の花・北総鉄道矢切駅なども別パートで使われてる。
場所を知ると“映画の余韻”がすごい勢いで蘇ってくるから、順番に紹介していくね。
映画館から出たあとってさ、
まだ体が上映中のまま止まってるみたいな感覚、あるよね…?
『兄を持ち運べるサイズに』を観た帰り道、
ウチずっと胸の奥のとこがギュッてしててさ
「あの夕焼け、あの静けさ、あの街…どこやったん?」って
脳みそごと映画の世界から帰って来れんくなってたんよ。
そしたらX(旧Twitter)でも同じやった。
「ロケ地どこ?」「あの駅知りたい」「図書館のとこ…あれどこなん」
──みんな同じ気持ちでさ、嬉しくて震えた。
景色を知りたいのって、
聖地巡礼がしたいとか、旅がしたいとか
そういう“理由”よりもっと奥で、
映画の余韻を、ちゃんと受け取りたかったから
なんやと思うんよね。
だからこの記事は、
「ロケ地一覧だけ並べまーす✋」みたいなんじゃない。
📍どこで撮られたのか
📍どの場面で写ったのか
📍その景色が“物語に何を与えてたのか”
ぜんぶ、あの感情の続きとして受け取れるように
スマホで読みやすく、丁寧にまとめていくね✨
あの映画、まだ終わりたくないやん?
ならウチと一緒に
“映画の続き”を風景から辿りにいこ🌙
『兄を持ち運べるサイズに』とはどんな映画?|原作・キャスト・あらすじ・テーマを整理して紹介
◆ どんな物語なのか(ネタバレなし)
『兄を持ち運べるサイズに』は、
疎遠だった兄が突然亡くなり、妹の理子(柴咲コウ)が東北で“後始末”に向き合う4日間の物語。
兄の元妻(満島ひかり)、娘、息子と再会しながら、
どうしようもなかった兄との距離感に向き合う…
淡々としてるのに、胸の奥をゆっくり締めつけてくるタイプの映画。
◆ キャストと演技の強さ
控えめに言って“役者の説得力がえぐい”。
柴咲コウは感情を抑えたまま落ちていく心の重さを、
オダギリジョーは“いないのに存在し続ける兄”の圧を体現。
ほかのキャストも全員「静かやのに逃げられない感情」を積み上げてくる。
◆ 原作とのつながり
原作は村井理子のノンフィクションエッセイ『兄の終い』。
実話ベースやからこそ、映画側が“語らなかった部分”まで観客が勝手に想像してしまう余白が刺さる。
体験としての苦しさが強いのに、なぜか優しい。
◆ SNSで多かった感想
Xでは
「泣かせに来ないのに苦しい。」
「静かな映画ほど後から刺さるやつ。」
「風景に全部語られた。」
って声だらけ。
分かる、ほんまそれ。
この映画はセリフじゃなくて“生活の景色”で語られる。
ロケ地一覧(多賀城・塩竈・千葉)|『兄を持ち運べるサイズに』撮影場所をシーン別にまとめて紹介

◆ 多賀城エリア(物語が動き出す“入口”の街)
『兄を持ち運べるサイズに』のロケ地の核はここ。
📍JR多賀城駅
📍多賀城市立図書館
📍多賀城市役所
📍ミラックマツヤ
観光地ではなく「生活圏」の街が、兄の人生と理子の感情の入口として描かれてるのがエグい。
映画序盤を思い返すと、まずこの街の匂いや静けさが蘇るはず。
“ここで生きてた”って痕跡が残ってるから、スクリーン越しでも温度が伝わるんよね🥺
◆ 塩竈エリア(静かな感情の変化が始まる場所)
続いて、映画の“呼吸”が変わる街。
📍JR本塩釜駅
📍壱番館ビル屋上
📍ホテルグランドパレス塩釜
特に壱番館の屋上カット、胸つぶれた人多いと思う。
街を見下ろしてるのに、人生を見下ろしてるみたいで苦しいのに優しい。
塩竈のパートって、言葉より視線と沈黙が刺さってくるんよ…。
家族の距離が一気に“ゼロではない”感じになるのもここ。
◆ 千葉エリア(現実に引き戻されるパート)
感情の深みに潜ったあと、無理やり現実に戻される場所。
📍千葉市斎場
📍ホテルプラザ菜の花
📍北総鉄道 矢切駅
宮城=感情の奥/千葉=現実の痛み
このコントラストが映画全体のバランスを決めてる。
戻りたくないのに戻らされる現実ってあるやん…
千葉のシーンはまさにその“残酷な着地”の象徴やと思う。
この3エリアを順に思い出すだけで、
映画の流れ・家族の距離・感情の変化が一気に脳内で再生されるはず。
ロケ地って場所の情報じゃなくて、
物語の感情の座標なんよね。
なぜ“この街”が選ばれたのか|特別じゃない風景が映画に与えた力と演出の意図を考える
◆ 観光地じゃない“生活圏”を舞台にした理由
この映画、あえて名所や絶景じゃなくて、
「普通の街」「生活の匂いが残る場所」 を選んでる。
多賀城も塩竈も、派手さはないけど、
暮らす人の時間・悩み・人生が層になって積もってる街。
だから、兄の“どうしようもなさ”も“優しさもあったはずの人生”も、
景色の中に沈殿しているように感じさせられる。
観光地やったらここまで刺さらんかったと思う。
「どこにでもある街」=「誰の人生にも起こり得た話」を成立させてるんよね。
◆ 風景が“感情”として機能していた
宮城の夕方の光って、昼ほど明るくなく、夜ほど暗くない曖昧な色。
あれがスクリーンの中で、兄の記憶や後悔の温度そのものみたいやって震えた。
図書館の静けさ、駅の無機質さ、屋上からの街の俯瞰──
全部 “説明せずに感情を語らせる装置” になってた。
セリフが少ない作品やのに感情が満載に感じるのは、
風景が心理描写の代わりをしてたから。
これってロケ地じゃなくて“登場人物”扱いやでほんま。
◆ “普通の街”だからこそ観客の記憶が重なる
映画館を出たあと、ふとした瞬間に
「あ、あの空気に似てる」って思った人絶対おるはず。
駅のホーム、団地の光、スーパーの通路、曇り空の午後…
映画の風景と、自分の人生の風景が重なる瞬間がくる。
豪華じゃないから刺さる。
完璧じゃないから苦しい。
でも完全に救われないわけでもない──
あのバランスは“普通の街”じゃないと成立しなかった。
この街が選ばれた理由はロケの都合とかじゃなくて、
「普通の人生にもドラマはある。」
「誰も映画の主人公になり損ねたまま生きている」
っていう残酷で優しいメッセージのためやと思う。
だからロケ地を辿るって、
単なる観光でもファン行動でもなくて👇
📍「あの物語の続きを、自分の心の中でもう一度歩く」
って行為なんよ。
ロケ地が映す“兄と家族の距離感”|家族ドラマとしてのテーマを場所から読み解く考察

◆ 駅・公共施設が象徴する“近いのに遠い関係”
JR多賀城駅や市役所のシーンって、
淡々と事務的な手続きの描写が多いのに、
画面の奥では 家族が抱えてきた距離感がそのまま滲んでる。
他人として扱うしかないのに、他人じゃなくて、
必要以上に優しくもできへんけど冷たくもなりきれない。
“近いのに遠い”って一番しんどい関係が、
建物の無機質さ・蛍光灯の青白さ・沈黙の長さで語られてた。
セリフじゃなく、景色に全部言わせるのほんまズルい。
◆ 住宅街と部屋の光が描く“寄り添えない優しさ”
兄の部屋の雑然とした空気や、
生活の匂いが消えきらない住宅街の夕方って、
見ててしんどいのに、目をそむけられへん。
「ずっとちゃんと人として生きようとしてたんやな」
って言いたくなるのに、それが遅すぎるから余計に苦しい。
誰にも助けを求められへん人間って、
「甘えたい気持ちを言語化できない」だけの人やったりするやん。
あの部屋の光はまさにそれを語ってた気がする。
◆ 屋上・ホテルが見せた“もう少しだけの救い”
壱番館ビルの屋上とホテルのシーンは、
ストーリーが前に進む瞬間の象徴。
正解でも許しでも和解でもないのに、
“無視しない” っていう最低限の温度が、家族の距離を一気に変える。
誰かのためじゃなく、誰でもない自分のためにふっと息を吐く感じ。
あの場所だからこそ、
感情を押し付けるんじゃなく “黙ったまま寄り添える関係” が成立してた。
家族って、言葉や行動より「同じ場所に立つ」だけで変わる瞬間あるんよな…。
『兄を持ち運べるサイズに』って、
登場人物の距離が変わる瞬間をセリフで説明しない。
距離が変わる“場所”を見せることで感情を語らせてた。
だからロケ地を見返すと
“兄と家族の関係性のアップデート”が、
どの街・どのタイミングで起きたのか一瞬で思い出せる。
ロケ地は
📍思い出の場所
じゃなくて
📍心の距離が動いた瞬間の証拠
なんよね。
ここがこの映画のヤバいところで、
だからウチらは忘れられへん。
ロケ地巡りで深まる『兄を持ち運べるサイズに』の余韻|観たあとに心に残るものと再視聴の視点

◆ 風景を辿ると“映画の続き”を歩いている気持ちになる
ロケ地って、ただ「写真撮る場所」やないんよね。
多賀城の駅前を歩いたり、図書館の柔らかい光を見たり、
塩竈の屋上から街を見下ろしただけで、
体が映画をもう一度再生し始める感覚がある。
記憶じゃなくて、“今ここに感情が戻ってくる”感じ。
◆ ロケ地を知ったあとでの再視聴は、全く違う映画になる
映画って一度目は“物語を追う時間”やけど、
ロケ地を知った二度目は
「風景が語っていた感情」を受け取る時間になる。
「なんでここなん?」って思ってたショットが
ちゃんと意味を持って胸に刺さる。
泣かんかった人でも、二度目で刺さる可能性かなり高い。
◆ 心に残るのは、家族よりも“場所に溶けた思い”
この映画って、
関係の修復や救済を派手に描かへんかったからこそ、
“完全には消えない思い”が場所の中に残ってる感じがある。
それが苦しいけど、ちょっとだけ救いでもある。
人生って、ちゃんと綺麗に終われる関係ばっかりちゃうもんね。
ロケ地巡りは、旅でも観光でも聖地巡礼でもなくて👇
📍「忘れたくない感情を、自分の中にそっと置き直す行為」
映画が終わってしまったのが苦しかった人ほど、
この余韻はきっと優しく効くと思う。
あの映画がまだ君の心に居続けてくれるように──
場所を通して、そっと続きに触れてくれるとウチは嬉しい🌙





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